3月17日 昨日のコメントにすこし解説と補足をしたいと思います。 すこしといいつつ、長いです、すみません。
この条例改正問題は、作り手の「表現の自由」を奪う、ということで私が反対している、と思われるかたもいらっしゃるかもしれません。 もちろんそうなのですが、同時に私が懸念しているのは、受け手の「内心の自由」を奪う、可能性があるということなのです。
「内心の自由」とは、人間が人間であるもっとも基本的な権利で、「何を心の中で思ったっていい、だって人間だもの」ということです。 (ここ、テストに出ます。いや、テストに出してくれる先生はとてもいい先生でしょうけどね・笑) 実際にやったら絶対にいけないことだって、思うのだけは自由なんです。それを知っていていただきたいのです。
でないと、「自由に思う能力」が、人間になくなってしまうかもしれません。 そうなったら、考えて当然のこと、やってもいいこと、まで「やるのもだが、考えただけでもダメだ」と誰かにおどかされたら、「はい」と、従うようになってしまうかもしれないのです。
そんな社会で生きたいと思いますか?
話はずれますが、「言霊師どーも」の中で、どーもがエミとリョウに「千万(ちよろず)の 軍(いくさ)なりとも 言挙げせず」と呪文を唱えて絆を誓うシーンを、私は書きました。 この呪文の意味を私はあえて作中で説明しませんでした。したら、押しつけになってしまう気がしたからです。
この呪文の意味を、言動で体現しているのが「どーも」で、自然にそのことに気がつくというか、彼の「やさしさ」(と受け取ってもらうのが一番かんたんかな、とイメージして描写しました)を読者さんが好いてくださったら、それでいいと思ってます。わざわざ説明しなくても。
しかし今、説明の必要を感じました。 「言挙げせず」(正確には「言挙げせじ」、小学生にわからない文法かなと思って変えました)とは何か。
勝手に白黒つけて人を批判しない。他者やことの善悪を個人が判断しない。心の中で自分で自分を律して判断するのみ。 ということです。 日本の神道というか古代からの倫理観で、日本人の精神の基本理念です。
白黒をつけない=他人のグレーゾーンを寛容する、他人の言動を赦して認める、これがたいせつなことだとされているんです。 自分には厳しく、他人にはやさしく、ここがポイント。
この寛容さゆえに、他国・宗教の文化や精神というか思想を受け入れてしまって、最終的にわけわかんなくなってるのが、現代日本なんだろうなとは思うんですけどね。
人間にはどうしても、矛盾した考え、やってはいけないとわかってるのだけれど沸いてくる考え、があります。 それをどうにか押さえよう、なだめよう、と悩むのも人間だからだし、こんなことばかり考える自分はいけないダメなやつじゃないか、と思うのも人間だから普通で当たり前のことです。
こんな当たり前にある心の中のぐだぐだを、外から強制的になくしてしまえば、一時的には社会の運営が楽ですが、ずっと、あかちゃんのときからやっていたら、考えなくなった人間は生きる力をなくすんじゃないかと、私は思います。 将来世の中は運営がよけい大変になってゆくでしょう、おそらくは。
今の私たちには関係なくても、未来の社会というものがあって、それに対して私たちは責任があるんだと思います。
アメリカ大陸の先住民族のことわざだったと記憶しているのですが、「われわれは未来の子孫から、居住地を借りているだけだ」というものがあるそうです。 これは環境問題においてときどき聞かれる言葉ですが、もっと広い社会問題にいえるんじゃないかと思います。
人間には、人間だからこそあらゆる考えや欲望がある、それによって悩み、葛藤する、とつきつけるひとつがメディアとか図書の類の創作物であり、そのつきつけかた=表現方法に、制限がある必要はないと思うのですね。 あらゆるすべてのことを、人間は思う自由がある、と読者さんに気がついていただくためには。
くりかえしになりますが、やってはいけないことがあると知り、それについていろいろ思わなければ、悪い気持ちを抑える心=良心すらも育たないですよね、きっと。
まあ、結論に替えて申せば、私は前々からそういう観点で「ディストピア(ユートピア=理想郷の正反対のもの)」の物語を書こうと考えてるんですけど、いっそうその意志を固めました。 どこか、賛同してくださる版元さんを探さないとなあ。 あ、もつろん、せつないラブにあふれた話で、ね(笑)
ついでながら、「どーも」のあの呪文は、たとえ何があっても、怒りに燃えて闘いたくなるような出来事に出逢っても「言挙げせず」の考えを忘れない仲間でいよう、という誓いなのです。
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